組織における「人数の増加」と「効率の良さ」は、
必ずしも比例しない。
人数が増えれば増えるほど、そこには「社会的手抜き」という
心理面での影響があるからだ。
「社会的手抜き」とは、つなひきで「自分ぐらいは力を抜いてもいいだろう」
という甘え。1対1の腕相撲では本気を出す人が、必ずしも、5対5のつなひきで
本気を出すとは限らないのである。
そのような手抜きが発生する原因は、
「手を抜いたことによる責任」を、個人が追求されないからである。
つなひきで、誰が力を抜いていたか? を調べることは不可能。
「私は全力で頑張りました。」と言っておけば、誰も責めたり出来ない。
同様に、会社組織において、チームで仕事をする場合、
各担当者の責任範囲を明確にしておかなければ、
誰も全力を発揮しなくなる。それが、チーム全体の効率を下げ、
進捗に遅れを発生させる原因の1つになるのだ。
人は、誰もが『自分こそが一番』だと思っているし、思いたい。
つまり「このチームを支えているのは自分だ」と、誰もが信じている。
それは、裏を返せば「自分以外の人間は、自分よりも頑張っていない」
という不信感につながる。
組織内の問題が複雑化すればするほど、その責任の原因が
そもそも誰にあるのか? を追求することは困難になる。
政治的な問題、国際的な問題は、特にその傾向が強い。
そして「罪を憎んで、人を憎まず」など、さらに曖昧にされるのがオチだ。
この問題を、根本的に解決しようとしたら、組織を細分化していく
ことになる。最終的には、すべてのサラリーマンは、個人事業主的な
観点で、自分の責任範囲と、取り分(報酬)を、明確に定義しなければ
ならない。そのような「シビアな線引き」も、これからは必要になる。
仕事量と報酬額の線引きをクリアにしようと思ったら、
「何を、いつまでに、どの程度までやるのか?」を、
当事者同士で、明確に打ち合わせなければならない。
サラリーマンが、自分自身の労働力に対する「見積書」を出すのだ。
それによって、自分のスキルレベルをアピールすることにもなるし、
自分を守ることにもなる。曖昧なまま請け負ってしまうと、なんでも
かんでも押し付けられ、便利に利用されるリスクがあるからだ。
最近読んだ本で「ニッポン型上司が会社を滅ぼす」というのがあった。
年功序列、終身雇用を前提として成り立ってきた日本の企業で、
成果主義の意味が取り違えられているという指摘。
「ニッポン型」に対比して「アメリカ型」という観点で、
これからのサラリーマンの働き方を考えてみると、どうなるか?
私のようなエンジニアの業界でも、アメリカのエンジニアは、自分たちの
作業分担範囲を明確にし、それを超える範囲については、一切タッチしない
という傾向がある。それが当然だという文化。
しかし、日本のエンジニアの場合、義理で「申し訳ない、ついでにこれも頼む」
などと言われると、つい引き受けてしまう。そこの考え方は、海外とは
根本的に異なる。
アメリカは訴訟大国と言われるが、タレントの契約でも、
かなり分厚い契約書が用意され、弁護士付きで、詳細まで
詰めて議論されるのだという。もし契約タレントが1キロ太ったら、
ギャラをいくら減らす、などの、ごく詳細なことまで、明確に。
そのような風潮を「堅苦しい」と考えるか、
あるいは「それが本来のビジネスのやり方だ」と考えるか、
その違いによって、日本型になるか、アメリカ型になるかが決まる。
やるべきことはちゃんとやるが、譲れないところは譲らない。
会社側がシビアな対応をすればするほど、それに対抗して、
社員もシビアな態度を取る。ルールの決定は、堅苦しいものだが、
自分を守るための道具にもなる。
契約とは何なのか? サラリーマンの「雇用契約」の意味を、
今、真剣に考え直さなければならない時期に来ているのではないか。
物理的にフリーになる前に、まずは考え方をフリーに変えてみる。
そうすれば、現在の雇用契約における矛盾点が浮き彫りになって
見えてくるはずだ。
(次回につづく。)
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